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議員の書き下ろしコラム
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無錫・南京・上海、そして

ゆはら季一郎

 通訳の曹峰さんの携帯電話がなったのは、マイクロバスが夕食へ急いでいる時であった。それまで「上海には20階以上のビルが2000棟ある」と出身地の説明を嬉しそうにしていた曹さんが「ハイ、ハイ・・そうですか」と声を落として聞いている。相手は日本人であることはすぐ分かった。中国人同士の電話は大きな声でしかも早口で、まるで喧嘩をしているように聞こえる。曹さんの電話はそれとはまったく違っていて、何か不安なものが感じられた。電話が終わると、車両前部の2、3人が相談していた。やがて住野議長がマイクをとって、「今、竹元君から電話があった。救急車で入院した総団長の小笠原収入役の容態がよくない。私たちはすぐ引き返して病院へ行こうと思うが」とのこと。朝から体調を崩していたが、入院していたとは知らなかった。衆議一決引き返すことになった。
 ホテルに残った4人は何かあったらすぐ対応しようと各部屋に帰った。暫くテレビを観ていたがまったくおもしろくなく、風呂に入った。とたんに電話がなった。ホテルにはバスルームにも電話機がついている。「もしもし、42階の会議室にすぐきてもらえませんか」と事務局岩澤君からの電話。少し不安を感じながらそこへ行った。私が入ったら「それでは」と言って住野議長が口を開いた。
 「ご存知のとおり、総団長はホテル到着直後『気分がわるいので病院へ連れていってくれ』といって、救急車で入院していたが、8時30分、急性心不全で亡くなられた」。続いて明日からの予定について、「市民交流団はそのまま行ってもらいたい、議会は二つに分かれて、故人の奥さんがくるまで一緒にいてやってほしい、それはベテランの3人。帰国するのは私と他の2人にしたい」との提案があり、全員が了解した。
 翌朝、病院に行った。玄関には昨夜から一睡もせず総団長を付き添っていたであろう竹元秘書課長の姿があった。びっくりするほどやつれていた。代表団がねぎらい、病院が用意した小さな会議室に入った。そこで昨夜からの状況について報告を受けた。
 とりあえず遺体にあわせてもらうよう病院に伝えた。竹本さんが許可証のようなものを示すとこちらだと案内してくれた。それは六畳くらいの部屋で、左右の壁面には日本の銭湯でよく見られる脱衣場のロッカーを大きくしたようなものが12個ずつあった。そこから出された遺体と対面する。白い布にすっぽり覆われていた。私は小笠原さんの遺体を前に、男にはこんな死に方もあるものだ、と思った。友好代表団の総団長として、無錫市や江蘇省人民政府や「人代」の記念式典・交流会をこなしてきて、6日の広東省表敬訪問を残すだけになっていたのである。それで緊張が切れたのか、あるいは南京から上海までの長時間のバスでの移動でドッと疲れがでたのか、身内のだれにも看取られることもなく、不幸にも異国の地で帰らぬ人となってしまった。
 その部屋には太平間と看板がかかっていた。日本流にいれば霊安室であろう。あまりにも粗末であるがやむを得ない。やがて領事館が紹介した「専門業者」が車とともに到着し搬送の準備にかかった。車の後ろに小さく「紅旗」と書いてあった。やがて出発するがハンドルを廻す度にギー、ギーと音がした。堂々たる名前の霊柩車にしてはあまりにもお粗末すぎて、故人が哀れに思えた。全員でこの車を送り、急いでホテルの新錦江大酒店へ帰った。

 この不幸な事件のおきる3日前、明石市友好訪中団を乗せた飛行機は予定どおり上海に到着した。空港には無錫市外事弁公室職員が出迎え、そこには専用マイクロバスが用意してあった。無錫までは 寧高速道路で約3時間。周りのほとんどは田園地帯で赤煉瓦や土を塗ってつくった古い中国の農家があり、新旧2つの中国を見るようであった。
 やがて無錫市の説明が始まった。最近周辺と合併し人口は420万人、面積は4400平方キロ。北に揚子江、南に太湖を望み、古くから水郷とよばれてきたが、運河は埋められ道路となっている。今、バイクの取り締まりに力をいれている。3年間で20万台を1割の2万台にする計画であるという。なるほど自転車、バイクがいっぱいである。中国は左ハンドルで右側通行なので、信号が赤でも右折なら大丈夫とのこと、どの車がルールを守りどのバイクが守らないのか、サッパリ分からない。やっと宿泊先に到着した。
 公式行事のトップは無錫市人民政府表敬訪問である。式典はホテルの一室で行われ、無錫側は王栄市長以下幹部が出迎えてくれた。そして明石市の小笠原総団長が「水を飲む時は、井戸を掘った人の苦労を忘れてはならない」、「20周年を節目に友好の発展に努力してまいります」と決意を述べた。

 あくる日は無錫市自慢の工業開発新区を視察した。93年に設立されてから日系企業50社が進出し、そのうち15社が江蘇省科学委員会から「ハイテク企業」に認定され「新区」の発展に貢献しているという。昼からは太湖遊覧である。太湖は無錫市郊外約10キロのところにあり、中国で第4番目に大きい湖である。面積は琵琶湖の3倍以上、2200平方キロという。そもそも明石市が無錫市と友好都市を結んだのも、太湖の景色と明石市から淡路島を望むそれが似通っていることから始まったのである。太湖に突き出たスッポンの頭に似た半島に鼈頭者公園があり、園内からの眺めは小島を配した瀬戸内とよく似ている。またそこには中国の一地方都市である無錫の知名度を抜群のものにした「無錫旅情」の石碑があった。みなそこで記念写真を撮っていた。太湖・鹿頂山などは初めてのような気がしなかったのもそのためである。しかし、湖水は茶色に濁っており、期待したものとほど遠く、とてもきれいとはいえなかった。
 夜の交流会は「人代」の食堂で行われた。無錫市「人代」の丘雪珍副主任に続き、住野議長が「友好交流が太湖に小石を投げ入れた水の輪のごとく年々大きくなっていきますように」と挨拶した。宴たけなわになった頃、1月に明石市を訪問した顔見知りの華新博さんがその時の約束である篆刻(てんこく)を持ってきてくれた。明石側全員の分でしかもすべて朱文である。『謝、謝』とお礼を言い、ついでに「私の妻は習字が好きで自分の作品に使いたいと思っている」と言ってしまった。「どんな字ですか」の問いに「蓉子」と書いた。「彫って届けます」との返事であった。その時は外交辞令であろうと深く気にもとめなかった。
 翌朝少し早めにロビーへ降りる。そこに華新博さんが来ていたので記念写真を撮った。無錫での公式行事は終えているので、みんな肩の荷がおりたようで元気いっぱい専用車に乗り込んだ。このマイクロバスも3日目になる。私は最後尾の一段と高くなったところに席を決めている。車窓の景色はここが一番よく見えるからである。議会代表団の一人がすでに座っていて小さな箱をしげしげと眺めている。昨夜の篆刻の箱であることはすぐ分かった。一人でブツブツ言っている。「ちょっと見せて」と受けとれば、なんと「蓉子」と彫ってあるではないか。「エツこれは僕のや」といって昨夜の事情を説明した。この議員も「うちの嫁さんはよし子なのにおかしいナーとさっきから思っとった」と納得した。華さんは昨夜おそくに彫ってくれたのだ。華さんにはなにも返すものはないが、友好の気持はしっかり返したいと誓った。
〔友好のしるしに贈られたてん篆刻〕

 今日は無錫から南京まで、 寧高速道路で3時間の旅である。道路の両側は畑や田ばかり、溜池が多いが真珠や淡水魚の養殖などがさかんにおこなわれている。古い城壁をくぐって南京市の中心部に入った。『三国志』で知られる呉王孫権が都を置いて以来、幾度かの激動の舞台となってきた古都である。先の城壁は長さ33キロにわたって町を囲み、4つの門があったそうだ。しかし、今は半分しか残っていないという。南京市に着いてすぐ中山陵にいく。三民主義を唱えた孫文の陵墓であり、392段の花崗岩の石段を上がらなければならない。みんながんばって登った。終点の祭堂に球形の墓室があり、孫文の大理石の棺がひとりで佇んでいた。
この下り道で小笠原総団長が道に迷った。迷うはずがないと思えるほどの一本道なのだが、今から思えば、その時既に身体が変調をきたしていたのかもしれない。

 上海から一日早く帰国する我々3人の航空券がとれない。中国はちょうど旧正月で、休みを利用して帰国する日本人労働者でいっぱいだったのだ。ここでも無錫市に無理を言って融通してもらい、やっと帰る事ができた。
翌日から高熱で、総団長の葬式に出た以外4日間寝込んでしまった。私ですらこうだから、責任を負う総団長はさぞ疲れたことであろう。
 考えてみれば、大蔵海岸での花火事故がなければ8月に訪中しており、その時の総団長は市長であったはずだ。加えて昨年暮れの砂浜陥没事故のため、ピンチヒッターで行かざるを得なかった収入役もまた、花火事故の犠牲者と言えるだろう。市民の反対を押しきって莫大な借金をして埋め立てた大蔵海岸のツケが、なんと大きく出たことだろう。

 
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